わかっちゃいるけど……
仕事でもスポーツでも、あるいは学問や趣味の研究にしても、何かコトを成そうとすると必ず内外から呼びかけてくる声がする。
「リラックスしろ」「集中しろ」「目的を明確に」
うんざりするほど周囲から聞かされ、また自らの胸の内で反芻することも100回や200回どころではないこの言葉。
その重要性は疑いようもなく了解していながら、いざ実践という段になると、これほど難しいものはない。
世に一流と呼ばれる人たちは、確かにリラックスし、集中する術を心得ているようだ。
たとえば、大リーグのシアトル・マリナーズで活躍中のイチロー選手。
彼は、パッターボックスに立つと、まず右腕をセンター方向に伸ばしてパットを垂直に掲げ、視線がその先を追うようなしぐさ。
次いで、左手でユニフオームの右肩のところに触り、袖を軽く引き寄せる。
日本にいたときと変わらぬ一連の動作につい嬉しくなってしまうが、これを通じて、彼は心身のリラックスを得、来るべき投球に集中しているように見える。
もう引退してしまった横綱・若乃花(花田勝氏)が、制限時間いっぱいになると必ず両手で頬をパンパンとたたいていたのをご記憶の方も多いだろう。
これも、集中力を高めようとしてのことに相違あるまい。
読者のみなさんも、さまざまな方法を試みておられるに違いない。
タバコを吸う、コーヒーを飲む、体操をする、瞑想をする、音楽を聴く、部屋中を歩きまわる……。
なかには、マントラのようなものを唱えたり、トイレに閉じこもったりして「リラックス」と「集中」を得ようと努力している人もいるかもしれない。
私も、人並みにいろいろと試してみた。
しかし、そこが一流になれない者の悲しさ。
面白い仕事には難なく没頭できるものの、興味の湧かない仕事となると、いつまで経っても集中できない。
結局、どんな方法を試したところで一向に役に立たなかったわけだ。
ところが、である。
一九九〇年の夏、私は偶然、ある方法を発見した。
依頼されたシンボル・マークのデザインに妙案が浮かばず、悶々として疲れきっていた深夜のこと。
いたずら描きに色鉛筆で彩色した図柄を何気なく見つめ、背伸びしつつ目を閉じたところ、瞼の裏に、今見ていた図柄の残像が浮かぶではないか。
「おやおや……。なんだ、これ?」
不思議に思って二度三度と繰り返し、そのつど、浮かんだ残像を追いかける。
すると、なんだか頭の中がすっきりしたような気になった。
と同時に、俄然やる気が湧いてきた。
何やら狐につままれたような思いではあったものの、私は翌日から、仕事にとりかかる前にまず図柄を見つめ、残像を追いかけてみることにした。
効果はてきめん。
あれほど苦しんでいたデザインの仕事が面白いようにはかどり、しかも、なかなかの出来栄え。
依頼主からもお褒めの言葉を頂戴したのである。
すっかり気をよくした私は、残像の虜になった。
より鮮明に、より長時間にわたって残像が浮かぶようにするにはどんな図柄がよいか、どの程度の明度、彩度の色をほどこせばよいか、いろいろとデザインしてみた。
何度も自分の瞼で試してみては破棄したりしているうちに、納得できるものが十数枚出来上がった。
これでよし。
好きな音楽を聴いても、トイレに閉じこもっても得られなかった「リラックス」と「集中」が、わずか数分間のうちに我がものとできるようになったのである。
残像メンタル・トレーニング
こうして実効ある「リラックス」と「集中」の手法を発見した私が、その後、世に一流と言われる仕事をするようになったかと言えば、残念ながら、そんな評判はまだ本人の耳には届いていない。
が、それはさておき—-。
ここに登場した「残像」という言葉は、少しも目新しいものではない。
一九六九年に刊行された『広辞苑』第二版(新村出編・岩波書店)に、「外の刺激が止んでからも、その感覚が残っていること。
主として視覚についていう」とある。
こう説明されると何やら難しそうだが、輝く太陽を見て目を閉じると、瞼の裏に光の塊がしばらく浮かんで見えることとして、誰でも経験している。
連続した動作の図柄を次々に見せられると、あたかもそれが動いているかのように見えるアニメーションの手法が、この残像現象を利用したものだということもよく知られている。