03.たまたまなった建築家
私がイタリアで暮らすようになったのは、ほんの偶然である。
デザイン学校の臨時講師、図面描きなどのアルバイトをしながら貯めたお金を持って、私は二十一歳のとき、ニューヨークへ向けて旅立った。
その一年ほど前にニューヨークに渡 った先輩から、「ここは、やっぱり素晴らしい。日本とは全然スケール感が違う。おまえも来いよ」との誘いの手紙を受け取ったからである。
しかし、ただ太平洋を越えてニューヨークに行くのではつまらない。
時間もたっぷりある。
途中、香港で降り、バンコクでも降りた。
さらにボンベイ、ベイルートにも立ち寄って、イタリアのローマに降り立ったところで、急遽この旅は中断されることになった。
イタリアの土の色は日本に似ている。
それがなぜか気に入って、私はこの地にしばらく留まりたいと思った。
そこでそれまでに描いていた図面や内装関係のスケッチなどを日本から取り寄せ、それを抱えて、ミラノで建築事務所まわりをすることになった。
領事館で教えてもらい、建築事務所協会のようなところで事務所の一覧表を手に入れた。
それと地図を見比べながら、一軒一軒訪ね歩く。
着いたばかりのこととて、イタリア語など話せるはずもない。
苦労して探し当てた事務所の受付で持ち込んだ作品をめくりながら、何を聞かれても、ただニコニコしているだけ⋯⋯。
七、八軒目だったろうか、カルロ・トリジアーニという、あとで知ったことだが別荘建築の大家の事務所を訪れた。
例によって、受付嬢はぺらぺらとまくし立てる。
こちらは、ただニコニコ。
当時はミラノでもまだ日本人は珍しく、何の騒ぎかと思ったのだろう、事務所の誰かれがやってきては、私の作品をパラパラとめくり始めた。
そのうち、姿の見えなくなっていた受付嬢が、トリジアーニ氏本人をともなって戻ってきた。
彼は、私の作品を幾つか眺めると、小さな紙切れに数字を書いて、眼前にピッと差し出した。「80,000-Mese」ある。
何のことかよくわからなかったが、即座にOK サインを出し、何度もうなずく。
こうして、私はミラノの建築事務所で働くことになった。
失業者の多いイタリアで、外国人が職に就くのは至難の業。
日本から来ている建築家の卵たちも少なからずいたが、一、二年の仕事待ちが普通という状態のなか、二ヵ月で仕事にありつけたのは全くの幸運。
どうやら、私にパース(平面図と立面図から起こした立体的な感性予想図いわゆる透視図)が描けるということが決め手になったらしい。
この仕事は図面があれば言葉を話さなくても出来る。その事務所にはパースの描ける人がおらず、外注していたのである。
「80,000-Mese」とは月給八万リラのこと。
当時のレートで約 45,000 円ほど。
ほぼ、日本の一流企業の大卒の初任給程度ではなかったかと思う。
ここで私は建築というものを本格的に教え込まれた。
当初は、言葉が通じないと言うことからくるコミュニケーション・ギャップに苦しめられ、ネオンが涙に滲んでしまう夜も多かったけれど、それは時が解決してくれた。
やがて、パースだけでなく、ちゃんとした図面も描けるようになったし、タイプも打てるようになった。
もちろん、イタリア語だってしっかりマスターした。
日本人は働き者だ。
休まず、怠けず、一生懸命に仕事に取り組む。
イタリア人が一週間でやる仕事を、一日もかけずにやり終えてしまう。
私は重宝がられ、その評判が同業者の耳に入って、スカウトが相次ぐことになった。
そして、四軒目にスカウトされたところ、そこがビットーレ・チェレッティ工学博士事務所だった。
続きを読みたい方は01〜08の順でお読みください。