05.脳のように大切な空間
建築物は、構造と機能の面で、よく人体にたとえられる。たとえば住宅を例にとってみると、その外装は人間の皮膚、玄関は顔、台所は胃、廊下は血管、水道や電気・ガスの設備は神経回路、窓やテレビ・電話などの施設は、外部からの情報をとり入れる感覚器官とい ったところ。
住宅の中でもいちばん大切な空間は、居間であろう。
ここは、折にふれて家族全員が集まり、様々な情報交換が行われ、その処理の方策が練られる部屋。
人間でいえば、複雑さのほどはとうてい及ばないにしても、脳に相当すると思われる。
ヨーロッパやアメリカでは、居間を広くとるケースが多い。
私が、遊びがてらに事務所のボス、ヴィットーレチェレッテ・チェレッティのマンションを訪れたときにも、まず居間の広さに驚かされた。
ボスの住まいは 4LDK。
三十畳ほどの広い居間に連なって食堂があり、それから各人の部屋。
居間の広さに反して、各人の部屋は意外なほどに狭い。
ベッドと机を置くともうほとんどいっぱいという感じだ。
マンションだから、ほかの人の住居も似たようなものだという。
彼らは、私たち日本人が思っているほど、個室というものに重きを置いていない。
寝るためと何か私的な書き物をするためのスペースさえあればいいという考え方で、生活の中心は、あくまでも居間で過ごすことにある。
夜、居間に一家が集まって、夫婦が会話をしているかたわらでは幼い子がおもちゃで遊び、一方の部屋の隅では年長の子が宿題をしている。
そんな光景は、映画やテレビでしばしば目にすることと思う。
日本では、これとは逆の事態が生じている。
総スペースの問題もあるが、一般に個室の広さのわりには居間が狭い。
だから、家族が居間に集まって、めいめいが好きなことをするわけにはいかない。
子供も中学・高校生ぐらいになると、学校から帰るとまっすぐに自分の部屋に行き、家族と顔を合わせるのは食事のときだけ、といった光景も珍しくはない。
先ほどのたとえのように居間を人間の脳だと考えると、ここが狭いのはやはり好ましくない。
まして、家族があまり集まらないとなると、それはつまり、情報が集まらないということにもなるから、全体の働きが何だかギクシャクしたものになってしまう。
私のボスは、子供は自室にこもっていてはろくな育ち方をしない、という考え方の持ち主だったが、それは、ゆったりした居間に常に誰かれが出入りすることによってこそ、家族全体の営みがスムーズに行えるという信念があったからだろう。
もっとも、ボスあたりの所得層になると、たいていの人が別荘を持っている。
面白いことに、別荘では居間が狭く、個室が広くとられている。
普段の生活では、できるだけ家族が集まり、その結びつきというものを大切にする。
ところが別荘では、一人一人の“個”というものを尊重し、自分を率直に表現する暮らしを大切にする。
彼らは、この二種類を巧みに使い分けて、それを、居間と個室の広さの関係で表現しているのである。
こんなところにも、人間の精神的要素を住宅にとり入れるヨーロッパ人の態度が垣間見えて、私は彼我の考え方の違いを痛感せざるを得なかった。
続きを読みたい方は01〜08の順でお読みください。